大判例

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福岡地方裁判所 昭和63年(ワ)2171号 判決

原告

甲野太郎

甲野春子

右両名訴訟代理人弁護士

津田聰夫

被告

乙川冬男

右訴訟代理人弁護士

南谷知成

右訴訟復代理人弁護士

用澤義則

南谷洋至

船木誠一郎

山口茂樹

主文

一  被告は、原告甲野太郎に対し、金二二六四万五五〇〇円及び内金二〇六四万五五〇〇円に対する昭和六二年七月六日から支払済みまで年五分の割合による金員を、原告甲野春子に対し、金二二〇九万五五〇〇円及び内金二〇〇九万五五〇〇円に対する前同日から支払済みまで年五分の割合による金員を、各支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

五  ただし、被告が各原告に対し、それぞれ金一〇〇〇万円の担保を供するときは、右仮執行を免れることができる。

事実及び理由

第一請求等

一請求

被告は、原告甲野太郎に対し金二五五七万六一五四円及び内金二三五七万六一五四円に対する昭和六二年七月六日から支払済みまで年五分の割合による金員を、同甲野春子に対し金二五〇二万六一五四円及び内金二三〇五万六一五四円に対する昭和六二年七月六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二仮執行宣言及び免脱宣言の各申立て

第二事案の概要

一本件は、被告の開設する診療所で造血剤の点滴を受けた後容態が急変悪化して心停止等を生じ、救急措置を取るも蘇生せず死亡した事故について、その遺族である原告らが、被告に診療契約上の債務不履行ないし不法行為に基づき、損害賠償請求をした事案である。

二当事者間に争いのない事実及び証拠(〈書証番号略〉)上明らかな事実

1  甲野花子(昭和一九年一月三一日生)は、昭和六二年七月六日死亡した。

原告甲野太郎は同女の夫、原告甲野春子はその間の子である。花子と原告太郎とは同四〇年一〇月二三日に結婚し、その間に同四三年原告春子が生まれた。

花子は、結婚後子供出産までの間一時レストランのレジスターなどして働いていたが、その後同五二年ころから本件で死亡するまではスーパーで、午前九時から午後二時まで、週休一回のパートとして働いていた。花子は、幼少のころ喘息気味であったという話を、結婚後に原告太郎にしたことはあるが、結婚後、喘息が出たことやその他の呼吸器系の疾患もなく、歯科治療を受けたほかは、ほとんど病気をすることもなかった。

2  被告は、昭和三六年六月に医師国家試験に合格した後、主として心臓、消化器等について研修した後、肺結核の内科的及び外科的治療、さらに、一般的な消化器等の手術及び内科患者の診療・治療、救急患者の診療・治療等に勤務医として携わってきたが、同四四年四月、肩書住所地において、被告医院を開設し、内科を主とした家庭医として診療に当たっていたものである。

なお、本件当時ころは、被告医院には、松岡准看護婦、石橋准看護婦の二人が勤務していた。

3  花子は、昭和六二年七月一日午前七時ころ自宅内玄関付近で突然倒れ失神したことから、被告の往診を受けたところ、脳貧血の疑いがあると診断され、血圧も六五ないし八〇と低く、翌日判明した血液検査の結果からは、血清鉄が少なく脳貧血が考えられる旨診断され、休養を指示された。さらに、同女は同月四日、食欲不振、胃のもたれ、胃の膨張感等の症状を訴えて、胃透視検査を受けた結果、胃下垂状態と診断された。

4  同月六日午前八時五〇分ころ、花子は被告医院を訪れ、造血剤の点滴を受けた。午前九時五〇分ころ点滴は終了したが、その後、花子は嘔吐した。

右嘔吐後、けいれんを起こすなど花子の容態は急変し、午前一〇時二分に松岡順子看護婦が一一九番通報した際には、既に心停止、呼吸停止し、チアノーゼ反応を呈していた。

なお、救急隊が到着するまでの間、被告の指示で、石橋寿子看護婦が、花子の足のくるぶし付近にネオフィリンの静脈注射をした(花子の嘔吐後救急隊到着までの間の事実経過については、後に改めて検討する。)。

5  午前一〇時五分、救急車が到着したが、救急隊員が花子を観察した結果、移送できる状態でないと判断された。そのためその場で花子に対し、気道確保、心臓マッサージや酸素吸入などの心肺蘇生法が施されたが、花子は蘇生しないまま、午前一〇時四五分救命作業は打ち切られた。

三争点

1  花子の死亡原因

(一) 原告らの主張

主位的には、点滴終了後、嘔吐した際の嘔吐物がその気道をふさぎ、極度の呼吸困難もしくは呼吸途絶を生じたことに死因があると主張し、予備的には、嘔吐物による呼吸困難に陥った際、ネオフィリンの急速注射を施されたため、右注射のショックにより心停止をきたしたことにあると主張する。

(二) 被告の主張

(1) 被告は、死亡診断書の発行のため一応の死因を記載する必要から、花子の直接死因を胃内容物誤飲による気道閉鎖と判断記入したが、これは正式に病理解剖された結果の診断ではなく、あくまで推定であって、他の死亡原因も想定され、断定はできない。

(2) また、ネオフィリンの注射が花子の死亡に影響を与えたとは考えられない。

ネオフィリンは昇圧剤であるから、本件に適応があった。仮に昇圧剤として有効でなかったとしても、被告は、心臓から遠位のくるぶしより一〇センチ上方の静脈にできるだけゆっくり同剤を注入しており、この注射と花子のショック死との間に因果関係がないことは明らかである。

2  被告の責任原因(過失の有無と因果関係)

(一) 気道確保を怠った過失の有無

原告らの主張

被告には、花子が異常な呼吸困難に陥った際、花子と診療契約をした医師として、気道の閉塞を疑い、気道を確保して救命するにつき必要、適切な措置を取るべき医師としての初歩的な注意義務があった。しかるに、被告は、花子が気道閉塞に陥った際、気道の状況に注意を払わず、同女にヒステリー症状もしくは喘息の発作が生じたものとの誤った判断をして、ネオフィリンの注射をするなど漫然と時を過ごし、注射後花子が心停止、呼吸停止、チアノーゼ反応を呈してもなお気道閉塞に気づかず、一一九番通報により到着した救急隊員によって気道確保の措置が取られて初めてこれに気付き、吸引器を持ち出して異物の吸引を行ったにすぎず、それ以前に花子の状態の判断及び救命につき何ら適切な措置を行わなかった過失がある。

仮に被告主張のように、被告が、救急隊が来るまでの間に、蘇生法としてマウスツーマウスによる人工呼吸及び心マッサージを施したとしても、気道確保なくしては意味がなく、さらに、被告の右措置は、被告が花子にネオフィリン注射をして不可逆的打撃を与えた後のことであって、花子にとってはすでに意味のないものであった。

(二) ネオフィリン注入に関する過失

原告らの主張

ネオフィリンは心臓などに対する衝撃が強いとされる薬剤であるから、これを注射するにあたっては、その適応を正しく判断して使用すべきところ、本件当時、花子は気道閉塞による呼吸困難に陥り、心肺状態が低下していたのであるから、花子に対し、その使用を避ける義務があった。さらに加えて、ネオフィリンは、急速注射を行えば、吐き気、嘔吐、心窩部不快感、めまい、心悸亢進等を起こし、進んでショックによる心停止を起こすこともあるので、看護婦にその注射をさせる際には、少なくとも五分ないし一〇分をかけてゆっくりと慎重に注射するよう特に指示する義務があった。

しかるに、被告は、気道閉塞による呼吸困難に陥った花子を、喘息の発作が出たものと誤認し、心肺機能が弱化した花子には適応のないにもかかわらず、看護婦にネオフィリンの注射を指示したのみならず、その際、その方法につき特段の注意を加えることなく、漫然と急速な注射を実施させた過失がある。

3  損害額

第三争点に対する判断

一本件死亡に至る経過等事実関係

本件においては、花子死亡当日の治療内容・順序、花子の容態の変化やその推移等につき、当事者の主張が大きく異なるので、まず本項でこの事実関係を、前記(第二の二)の争いのない事実等と、証拠(〈書証番号略〉)及び弁論の全趣旨により、認定・確定する。

1  昭和六二年七月一日、午前七時ころ、花子は自宅内玄関の土間で倒れ、立てない状態となった。原告太郎は花子を居間に連れて行き横にしたが、花子は意識がなく、顔色青く、体も冷たくなっていた。花子は、間もなく意識のみは回復したものの、その余の状態は改善されなかったので、原告太郎は、自宅近くの被告医院に往診を依頼した。被告が、花子を往診したところ、心音、呼吸音に異常はなく、血圧を測定すると下が六五、上が八〇で、顔色が少し青白い程度であった。さらに、被告は、右のほか、花子や原告太郎から、吐き気、不眠、食欲不振、少し痰が出ること、風邪気味などの前日あった症状や、十数年来発作はないが喘息の既往症があったことなどを聞いたうえで、貧血の疑いがあると診断し、心配であれば二、三時間休ませて病院の方に来るよう指示した。

そこで、同日午前一〇時半ころ、花子は被告医院に行き、血圧測定、尿検査、胸部のレントゲン撮影、赤沈検査、心電図、血液検査などの諸検査・問診等を受けた。しかし、血液検査以外については特に異常所見は見られず、花子は自宅に帰った後、食欲も出て回復したような様子を見せていた。

2  翌二日午後二時ころ、花子は被告医院で再診を受けた。その日も花子は吐き気や胃のもたれ等の症状を訴えていた。被告は、前日の血液検査の結果から、同女の血清鉄の数値(正常数値は五一から一三九)が二六と非常に低いこと等が判明したことから、同女は貧血で倒れたものと診断し、食事、睡眠を十分とって休養し、規則正しく運動もするようにと指示、説明し、鉄剤と吐き気等の症状を除くための胃薬を渡した。その日の花子は、自宅に帰ってからも余り元気も食欲もなく、原告太郎に胃がふくれて苦しい、気分が悪いと訴えていた。

3  同月四日も、花子は、被告医院へ行き、胃の透視を受けた。その結果、被告は、花子が胃下垂の状態であり、胃の内容物の通過が悪いと判断し、その旨同女に説明し、栄養、休養を十分にとり、右を下にして休むようになど指導し、バリウム排出用に下剤を投与した。

4  花子は、以後も、食欲がない、眠れない、吐き気がするなどを訴え続け、日毎に元気がなくなっていたが、同月五日、夕食後食べたものをすべて吐いてしまった。原告太郎はこのまま花子が直らないのではないかと心配し、知り合いの別の医師に、血清鉄の検査数値が二六であったなどのこれまでの花子の症状を説明したところ、その医師から造血剤の静脈注射をしてもらった方がいいと聞かされたので、翌日にでも、被告にその旨依頼することにした。

5  事故当日の状況

(一) 同月六日、午前八時五〇分ころ、花子は被告医院に行ったが、身体の衰弱がひどいため診療室内のベッドに寝かされた状態で被告医師の診察を受けた。被告は、同行した原告太郎の要請もあって、看護婦に点滴の指示をした。そこで、午前九時から九時一五分までの間に、フィジオゾール三号(輸液、栄養補給剤)五〇〇ccに、ビタミンB1一〇mgを二アンプル、ビタミンC一〇〇mgを二アンプル、ネオプラミール(吐気抑制剤)を1.5cc、フェジン(貧血用鉄剤)を一アンプル入れた点滴が開始された。原告太郎は、この点滴開始時から花子の寝ているベッドの頭に座って同女を見守っていたが、同女の顔色が次第によくなったほかは、その容態に特別変わったことは認めなかった。

(二) 午前九時五〇分ころ、点滴が終了した直後、花子は、横を向いて、緑色様のものを吐いた。原告太郎は、1.5メートル離れたデスクで他の患者を診察していた被告に花子が嘔吐したと告げ、被告から嘔吐物が胆汁液であると聞かされた。原告太郎が、嘔吐物を診察室にあった雑巾で拭いて、それを洗って戻したころに、被告が膿盆を持ってきて、「吐くならこの中に吐きなさい。吐けたので、気分がよくなるかも知れませんよ。」などと言い、松岡看護婦は、花子の口元を綿花で湿して、「吐きたくなったら横になって吐きなさい。」と言うと、花子はうなずいていた。

(三) その数秒後、花子は、急に手足をベッドにばたばた打ちつけて、のたうち回るような様子で苦しみもがきだした。

被告は、初め、それがヒステリーによる痙攣ではないかと考え、花子の顔を両手ではたいて、もう少し落ちつくように言ったが、花子のもがく様子はだんだんひどくなっていった。そこで、被告は、花子に喘息の既往症があることや前日から食欲不振、不眠等不安状態にあることに思い当たり、花子が気管支喘息状態となったのではないかと疑い、気管支拡張作用を有し、喘息患者に使用されるネオフィリンを静脈注射するよう看護婦に指示した。ただ、点滴終了直後で、腕に注射することができなかったため、もがく花子の上半身を被告が、足を松岡看護婦が押さえたうえ、石橋看護婦が足のくるぶしあたりにネオフィリン一管の静注を実施した。

(四) 注射を終えてその針を抜くと、それまでもがく様子を見せていた花子の様態は、全身小刻みなけいれん状態に変わり、それが数十秒続いた後ぱったりと動かなくなった。

被告は、それを見てすぐに、救急措置のとれる所へ転院させるべく看護婦に救急車を呼ぶように指示し、松岡看護婦が、直ちに、一一九番通報した。その時刻は、午前一〇時二分であった。

(五) 同日午前一〇時五分に救急車が被告医院に到着したが、その時点では花子はベッドに仰向けに寝かされた状態にあった。救急隊員は搬送先病院の選定のために、花子の症状を被告に一応尋ねたものの、自らの観察で花子に意識がなく、心臓、呼吸が止まっていると判断し、このような状態では搬送困難である旨被告に話したうえ、直ちに、気道確保のため花子の頭を後ろに反らし、車載のデマンド・バルブ(手動引金式人工呼吸器)を用いて酸素を入れ、CPR(胸骨を圧迫して心臓を動かす心マッサージ)を実施し、蘇生を図った。初めのうちは酸素が入っていたが、途中入り難いと判断し、舌根沈下を疑い、救急車に搭載していたエア・ウエイを持ってきて、挿入した。しかし、それでも酸素の通りがよくならなかったため、気道に閉塞物があるのではないかと疑い、車載の吸引器を持ってきて吸引したが、吸引力が弱くて何も出てこなかった。そこで、同隊員は、被告に頼んで被告病院備付けの吸引器で吸引してもらったが、それでも肺が膨らまなかったので、被告に気管内挿管を行ってもらい、隊員が直接口から酸素を吹き込むという方法を取って、やっと人工呼吸ができる状態になった。

しかし、以上によるも花子は蘇生せず、一〇時四五分、救命措置は打ち切られた。

二被告主張の事実経緯及びその信用性について

被告は、以上の認定と異なる事実経過を主張しているので、以下、その主張について検討する。

1  一一九番通報までの事実経過について

(一) 被告主張の要旨

被告は、花子が嘔吐後に痙攣し、その途中、口唇チアノーゼが現れ、直ちに頸動脈等の拍動を確認したところ、拍動はなく、さらに心停止、呼吸停止が同時に起こった緊急事態であると判断されたので、看護婦に一一九番通報を指示するとともに、人工呼吸を始め、ネオフィリンの注射を指示した、もしくは一一九番通報の指示と注射の指示とはその前後関係がはっきりしないほど近接していたと主張している。

(二) 心停止等の発生時期について

ところで、一一九番通報がされたのは、午前一〇時二分であることは証拠上(〈書証番号略〉)明らかであるから、もし右の被告主張のとおり、緊急事態が生じ、それに伴い、一一九番の通報指示とネオフィリン注射の指示とが同時にされて、その指示を受けて、松岡看護婦が直ちに一一九番通報したとすると(証人松岡によれば、右通報指示は直ちに実行されたと認められる。)、緊急事態の発生も、一〇時二分ころかあるいはそれ以前の少なくとも一分以内であったことになる。

しかしながら、花子がもがくような様子を見せ始めたのは、午前九時五〇分ころ点滴終了して直後に嘔吐し、嘔吐物を原告太郎が処理し、被告が膿盆を持ってきて、松岡看護婦が口元を拭くなどして後であるが、そこに至る正確な時間は明らかでないとしても、右事実の経過からすると、点滴終了後から、少なくとも四分から五分程度経過した後であったと推測され、それは、原告太郎が、花子が嘔吐したのは点滴終了後数十秒くらい、嘔吐して暴れ出したのが三分から五分くらいと供述しているところともほぼ一致する(原告太郎)。そうすると、緊急事態の発生は九時五五分前後と推認することができ、一一九番通報された一〇時二分とは七分間の時間的間隙が生じたことになる。仮にそうだとすれば、事の緊急性を認識していた被告のとる行動としては、不自然であるというほかない。

(三) ネオフィリン注射の時期について

仮に、被告主張のとおり、一一九番通報の指示とネオフィリン注射の指示とがほぼ同時であったとすると、注射は一〇時二分以降に実施されたことになるが、一〇時五分に救急隊が到着して後には右注射が実施されていなかったことは、証人安河内の証言に照らし明らかである。

そうすると、救急隊が到着するまでの三分の間にネオフィリンの注入が実施・完了されたことになるが、被告の指示がされ、看護婦らが注射の準備(アンプルを切って中の液を希釈し、注射器に入れるなど)をし、診察室横の受付にて一一九番通報をした松岡看護婦が戻ってきて、注射のため花子の足を押さえて対象を固定する役目に付くための時間やけいれんする花子に注入するために要する時間等から考えると、やはり三分間の内にこれらを完了するには時間的に無理なことと解される。

したがって、ネオフィリン注射の指示が一一九番通報の指示と同時もしくはその後にされたとは考えられない。

(四) 以上のように、花子の嘔吐後の経過としては、原告ら主張のところを基本に、花子が右嘔吐後苦悶の様相を呈したので、午前九時五五分ころネオフィリン注射を実施したところ、心停止等の緊急事態が一〇時二分前後に至って生じたものと推認するのが相当であって、これらに関する被告の主張・供述は信用できず採用しない。

2  被告による人工呼吸措置の有無について

(一) 被告の主張の要旨

被告は、花子の痙攣途中に緊急事態が発生したものと判断し、それに対する救命措置として、注射と同時に人工呼吸等を行ったと主張する。

(二) しかしながら、まず、注射時には右緊急事態が起こっていなかったとみるべきことは、前述のとおりである。

(三) 一一九番通報後の人工呼吸措置の有無について

被告は、右通報後も器具を使用した救命措置は取っていなかったものの、人工呼吸等最低限のことはしており、それを到着した救急隊員が替わって続けたと主張・供述する。

しかし、証人安河内の証言によると、救急隊員が到着した当時、花子は寝かされた状態であったが、特に救命措置が取られていた様子はなかったことが認められ、また、人工呼吸等の救命措置は、その人が蘇生しない限り、救急隊員と交替できるまで継続されるべきものであること、それまで被告が取っていた措置や花子の状況について救急隊員に説明した経緯も窺われないことに照らすと、一一九番通報後も被告により人工呼吸等の救命措置が施された事実を認めることは困難であり、被告の前記主張・供述は採用ないし信用できない。

もっとも、カルテ(〈書証番号略〉)には、被告が、マウスツーマウスと心臓マッサージを開始した旨の記載がある。しかし、右のカルテの記載は、事故発生後に書かれたもの(被告)であり、かなりの挿入が加えられ、かつ記載自体にあいまいな点が散見されることなどに照らすと、右カルテの記載内容どおりの事実を認定することには躊躇を覚え、信用できない。

三花子の死亡原因(争点1)について

1 右一に認定の事実経過、ことに、花子が、点滴終了後嘔吐し、仰向けになって息が詰まった様子でもがき苦しんでいたこと、被告は、これを喘息の発作と考え、ネオフィリンの注射を指示したこと(異物による気道閉塞の初発症状である呼吸困難と喘息の発作とは誤って判断されることもある。〈書証番号略〉)、救急隊の到着後の吸引により、花子の口内からの吸引物が認められたこと(仮に吸引物が出てこなかったとしても、それはその時までの救命措置等により気管奥へ押しやられていた可能性がある。)、救急隊が最終的に気管内挿管を行ってやっと酸素が通るようになったこと等を考慮し、さらに証拠(〈書証番号略〉)をも併せ検討すると、花子の第一の死亡原因は、嘔吐後に嘔吐物が気管内に入り、気道を閉塞したことにあると推測するのが合理的である。

もっとも、救急隊員による酸素投与では、当初多少の投与・挿入ができたことからすると、完全な閉塞ではなかったといえるが、気道の狭窄が続き、呼吸困難な状態のまま、気管内の異物が除去されることなく救急隊による措置の最終段階に至るまで推移しており、それが生命を脅かす結果になったと推測されるから、いずれにしろ気道閉塞が原因であったと判断するのが相当である。

2  ところで、死因との関係で、原告らが予備的に主張するネオフィリンの静脈注射について触れるに、ネオフィリンは、気管支拡張作用のほか、心筋刺激作用等があり、鬱血に対し有効な薬として一般的にも認められているが、他方、急速に静脈内に注射すると、嘔吐、痙攣等の副作用のほか、ショック症状が現れることがあり、その投与による死亡例もあること(〈書証番号略〉)、前認定のとおり、ネオフィリンの注入後、花子の容態が急変し、緊急事態と判断される様相ないしはショック状態を示すような全身痙攣を生じ、その後花子が動かなくなったという経緯があったことに照らすと、気道閉塞が第一の死亡原因としても、ネオフィリンの注入が右原因に重畳的に作用したか、あるいは、少なくとも右の注入が引き金となって、気道閉塞を単独原因とした場合よりも死亡を早める結果をもたらしたことは否定できないように思われる。

3 なお、念のため、被告主張の前記二のとおりの事実経過をたどったと仮定してみても、前記のとおり、花子にばたばたともがくような様子があり、その後、心停止に至っていること、さらに、その後の救急隊による救命措置の過程で気管内挿管が行われて酸素投与が可能となった経緯にあることからすると、気道閉塞が第一の原因であったことは否定し難い。

また、この経過の場合、ネオフィリン注射との関係では、その注入前の心停止等を仮定すると、その後のネオフィリン注射が死亡に直接的に影響したとまでいうことはできないが、弱っている心臓に心筋刺激作用の強い薬剤が注射されたことによって、以後の救命措置をもってしても蘇生しえない状態にした可能性が推認されるし、注入時心停止状態でなかったと仮定すれば、強力な薬剤の投与でショックを来たし、心停止に至った可能性も十分推認される。

四被告の責任原因(過失の有無と因果関係。争点2)について

1  点滴について

被告本人尋問の結果によれば、花子の原疾患については明らかにされないまま、血液検査やレントゲン写真の結果から、貧血あるいは胃下垂との判断のもとに、花子に本件点滴が実施されることとなった。そして、鑑定の結果及び証人佐藤の証言によれば、この点滴が花子の嘔吐の原因となったとも考えられるが、何らかの原疾患から来る嘔吐であることも否定できないこと、仮に点滴が不適切で嘔吐を招いたとしても、その後適切な措置が取られていれば気道閉塞に至ることもなかったと考えられるので、本件の点滴をもって被告の直接の責任を論ずることは相当ではない。

2  気道確保を怠った過失(争点2(一))について

(一) 前記一、5で認定のように、被告は、花子が、点滴後嘔吐物が気道に入ったために、呼吸困難な状態となり、手足をばたつかせていた状況を見、かつ同女に喘息の既往症があると聞いていたことから、喘息の発作のみを疑って、喘息治療に通常使用される気管支拡張剤であるネオフィリンの静脈注射のみを指示したに止まり、異物による気道閉塞を疑わず、気道確保するなどの措置を取らなかったものである。

(二) 当時、花子の原疾患が何か明らかでなかったとしても、被告は、それ以前の診断経過から、その前日嘔吐するなど花子に吐き気があったこと、食欲不振、不眠状態の継続を聞き知り、事故当日も花子の体が弱っていたことを認識していたこと、喘息の既往症があるものの十数年以上発作が出ないことも聞かされていたことなどから、花子が受診中嘔吐する可能性があること、それが喘息を原因とするとは限らないことを、医師として容易に予測できたはずである。そうであれば、体が弱っていた花子に嘔吐が生じれば自ら嘔吐物を排出できるよう配慮すべきは当然で、実際にも松岡看護婦が嘔吐物の誤飲を防ぐため、同女に横になって吐くようアドバイスしている。

しかるに、花子が横向きで嘔吐した後、右アドバイスに反して仰向けになってもがいていたというのであるから、被告は、その際、同女が嘔吐物を誤飲したとの疑いをもってしかるべきであったと思われる。

(三) 確かに、喘息の発作と異物の誤飲による気道閉塞とは、取り違えやすいとされる(〈書証番号略〉)。しかし、他方、この誤診は一般的にも注意的に言われている(〈書証番号略〉)ことであり、まして本件においては、被告は、花子の喘息について十分な問診や診断をしておらず、花子が十数年以前の既往症があったとの情報のみを持っていただけであったから、医師として、その情報のみをもって安易な診断をすべきでなく、慎重に対処すべきであったと思われる。しかるに、被告は、喘息のことにしか考えが及ばず、異物の誤飲による気道閉塞を疑わなかったため、適切な救命措置をとることがなかったのである。

(四)  以上のように、被告は、情報が十分でない状況のまま、安易に喘息のみを疑ったため、その取るべき措置を怠ったものであり、ことに原疾患が明らかでない以上、花子の状態をより慎重に観察、判断し喘息発作以外の原因、すなわち気道閉塞をも疑うべきであって、これに対する基本的な救命措置として、気道を確保して蘇生法を講じて、花子の呼吸困難な状態を解消する措置をとるべきで、そうすれば、本件の重大な結果を回避できたものと考えられる。

したがって、被告に、医師としての注意義務を怠った過失があることは否定できない。

(五)  また、原告が仮定して主張しているように、仮に、被告がネオフィリン注射の後でも、花子に対し、気道確保、人工呼吸等の措置を取ったとしても、前認定したとおり、ネオフィリン注射が花子の蘇生可能性を妨げるような影響を与えた後であったことが窺われ、時期を逸した不適切なものであったというほかない。

3  ネオフィリン注入に関する過失(争点2(二))について

原告が予備的に主張するネオフィリンを注射したことによって、その死期を早めたという点で被告に過失が認められるかを検討する。

(一) ネオフィリン注射については、それが実施されたこと自体、気道確保等の措置に至るのを遅らせた行為であったという点で、前記2の誤った判断と相まって、過失があったということもできる。

(二) さらに、ネオフィリンが急速に静脈内に注射されると、嘔吐、痙攣等の副作用のほか、ショック症状が現れることもあり、その投与による死亡例もあることは前述したとおりである。

ところで、花子は、嘔吐物が気道を閉塞し、呼吸困難に陥っていたのであるから、喘息の際、気管支拡張を目的としたネオフィリンの投与は適切でなかったうえに、花子は呼吸困難の状態にあって、心臓が弱っていたものと考えられるから、場合によっては右のとおり危険な結果を来すおそれのある薬剤の使用は避けるべきであったというほかはない。

さらに、前認定した本件における時間的経緯のほか、被告がネオフィリンの注射を指示した際、看護婦に特に注射を時間をかけてゆっくりするよう注意した事実はなく、しかも、ばたばたするのを押さえた状態で注射が実施されたこと、実際、注射直後に花子の容態が急変し、ショック状態と認めうるようなけいれんの後、口唇チアノーゼ、心停止に至っていることからすれば、ネオフィリンは急速に注射された疑いが強く、その使用方法も不適切であったことが明らかである。

(三)  以上のように、危険性のある薬剤の投与を、十分な指示を行わないまま実施させた点についても、被告に過失があったといわなければならない。

4  被告主張の事実経過をたどった場合と本件過失について、念のため付陳する。

(一) 被告主張の事故当時の事実経過は、前記二に記載のとおりであり、気道閉塞を疑い、気道を確保して人工呼吸等の措置を継続して施し、その間、一一九番通報を指示し、ネオフィリンを注射させたというのであるが、右主張が採用し難いことは前記二に説示のとおりである。

もっとも、右主張の経過をたどったと仮定してみても、前述したとおり花子の第一の死因が気道閉塞であったから、花子の心停止に際し、被告は気道閉塞があったことは認識していたことになるので、その予見義務は尽くしていたとはいえても、気道確保等の結果回避措置についてはなお、疑問が残る。

すなわち、被告医院には吸引器等の器具が備えられていたのに、救急隊到着前にこれが使用された形跡はなく、また、救急隊到着時には、本来引き継ぎ継続されるべき人工呼吸等の措置が少なくとも一旦は中断されたことにより、気道閉塞状態の改善が多少遅れたことは否定できず、その結果回避措置において被告に過失があったことは否めないと思われる。また、この場合にもネオフィリンの使用が不適切であったことは、前述と同様である。

五損害(争点3)について

1  花子の逸失利益

二四一九万一〇〇〇円

(原告ら主張額二六〇五万二三〇八円)

前記第二の二、1に判示のとおり、花子は、本件事故当時は四三才であり、原告太郎と結婚し、原告春子を出産し、昭和五二年ころから本件事故直前まで、スーパーでパートとして勤務し、時には残業もこなしながら週休一回で働くほか、通常の家事労働に従事するなどの健康な状態にあったこと、事故当時からなお二四年間は就労可能であったこと、賃金センサス昭和六二年第一巻第一表の「企業規模計、学歴計」における四〇才ないし四四才の女子労働者の年間平均給与額は二六九万七二〇〇円であることなどを算定資料とし、年五パーセントのライプニッツ係数によりかつ生活費の控除割合は三五パーセントを相当と認め、これらにより逸失利益を計算すると、次の算式により二四一九万一〇〇〇円となる。

2,697,200×(1−0.35)×13.7986≒24,191,000

2  右の逸失利益の各原告による相続(各二分の一)

各一二〇九万五五〇〇円

3  花子死亡による各原告固有の慰謝料

各八〇〇万〇〇〇〇円

(原告ら主張額各一〇〇〇万〇〇〇〇円)

前記認定の本件に現れた諸般の事情を考慮すると、花子の死亡により原告らが被った精神的損害を慰謝するには、各八〇〇万円をもって相当と解する。

4  葬祭費用(原告太郎出捐分)

五五万〇〇〇〇円

(原告ら主張と同額)

5  損害の合計

原告太郎につき

二〇六四万五五〇〇円

原告春子につき

二〇〇九万五五〇〇円

6  弁護士費用

各二〇〇万〇〇〇〇円

(原告ら主張と同額)

7  認容すべき額

原告太郎につき

二二六四万五五〇〇円

原告春子につき

二二〇九万五五〇〇円

(裁判長裁判官川本隆 裁判官八木一洋 裁判官桑原直子)

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